飛べないブタはただのブタさん

もはやブタはいません。

ロースカツを噛み締めて

今年のはじめ、ひとりの偉大な男がこの世を去った。名は納谷幸喜、またの名を大鵬幸喜。言わずとしれた戦後最強の大横綱である。巨人大鵬卵焼きというフレーズのしっくり感はともかくとして、当時昭和30年代の男の子たちの好きなものに堂々と冠するところ、差し詰め今のルフィくらいに相当するのかもしれない。

その大鵬という名を冠した食堂が吉祥寺にある。サンロード商店街を入り、その後すぐ脇道にそれて小径に入る。雑居ビルの狭い通りを抜けたところにとんかつ大鵬がある。吉祥寺というシャレオツ空間にぽつんと昭和の風情を残すとんかつ屋は、小汚いビルの2階へと続く階段からお邪魔することができる。

とんかつ屋ということで、ランチの時間はヒレカツ定食、ロースカツ定食、カツ丼定食、カツカレー定食、メンチカツ定食と、カツを中心としたメニューである。なぜかステーキもある。ステーキもウリらしいがそこはよく知らない。暖簾をくぐるとお姉さんが対応してくれた。12時半くらいだったが、あまり混雑はしていない。空いてたテーブル席に座った。メニューは一瞥しただけで、ロースカツ定食を頼んだ。

席は普通のテーブル席に、厨房と相対しているカウンター、また奥に少しお座敷がある。デスクワークの合間のお昼休みを堪能しているサラリーマンがほとんどであり、若い人たちは座敷で足をだらしなく伸ばしながらタバコをふかしていた。ずっと仕事の愚痴である。ランチタイムから。

ぼんやり待つこと5分、目の前にロースカツの御膳がどんと置かれた。中央にロースカツが6切れ、キャベツ、ごはん、味噌汁、お新香である。ごはんはお代わり自由であり、米は小粒でパサパサ気味であるが、その分喉が通りやすい。味噌汁は小さな豆腐とネギが入っている。お新香はたくあん。そしてカツ。カツには備え付けのソースをたっぷりかける。もちろんキャベツにも。ドレッシングなどというものはない。

カツを一口ほおばる。パリパリ、サクサクという食感は、カツのきめ細やかな衣から一気に口の中に広がっていく。そして中身の豚肉はそれなりに厚く、じゅわっと肉汁が衣と絡まり口の中でとろけていく。旨い。ソースはたっぷり目のほうが、よほど味が染みこんできて良い。カツ、ごはん、カツ、ごはんをちびちびと繰り返しながら。

カツが半分になったところで、ご飯をお代わり。たっぷりですか、半分ですか、と訊かれたので、半分で、と答えた。戻ってきたお椀には、それなりにたっぷりのご飯が入っていた。またそれを平らげる。隣のテーブルの男性は、メンチカツ定食を注文したようだ。ひき肉の甘い香り、ここまで伝わってきた。

もぐもぐもぐもぐ繰り返しているうちに食べ終わってしまった。ごちそうさま。ここで出てくるのがコーヒー。サービスらしい。ドッピオほどの大きさのカップに出てきたコーヒーの濃さは、さながらアメリカンだった。いっぱい食べたら眠くなるから、これを飲んで目を覚ましてまた働けということか。働くひとのためのランチである。

これだけいっぱい食べて、なんと750円である。某有名チェーンの和◯だと1200円はするであろうに。ま、味はめちゃくちゃ美味であるかというとそういうわけでもないのだが、ただやはり出来立ては美味しい。学生時代よく通った店は全く姿を変えずにそこにいた。ただ、レジに置かれていたハンカチ王子こと斎藤佑樹の写真はおそらく早稲田にいた頃の輝かしいオーラが、より一層定食屋の寂寥感を際立たせていたのであった。

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どの舞台で勝負するか

なんでも自分の舞台に引きずり込んで勝負しようとするのは、自分が負けるリスクを減らすことにはなるかもしれないが、それによって得られる経験値は少ない。

相手の舞台に果敢に挑戦しよう。

分からないこと、敵わないこと、ボコボコにされることもある。負ける確率の方が圧倒的に高い。それでも得られるモノは少なくない。

白黒はっきりさせることだけが勝負じゃない。胸を借りて謙虚に乱取りして打ちのめされるぐらい、必死に挑戦し続けることが大事だ。

杜の都

あやめ草足に結ん草鞋の緒

松尾芭蕉

生まれて初めて仙台に降り立ちました。目的はジョジョ展 inS市杜王町だったわけですが、10時着にもかかわらず初日の大盛況ということで、入場可能時間が17時という事態になりましたので、ぶらぶら仙台の街中を巡ってみました。

と言っても結局言ったのは青葉城址と藤崎のある商店街くらいで、なんというか特に主だった観光名所は街の中にはなく、山寺や松島のようにちょいと遠出をしなければならないのですね。時間の制約もありました。とりあえず雑多な感想をば。

  • 牛たんまじうまい
  • 東北大の工学部はあんな山中にあるとか信じられん*1
  • 伊達政宗公の像は意外とでかい
  • 定禅寺通はおしゃれ
  • ちょっと街から離れると田舎

といったところか。

メインのジョジョ展、これは荒木飛呂彦の今までの作品の原画がずらーーっと並べてあったんですが、特にカラーの色彩が鮮やかで綺麗すぎて泣いた。本人はゴーギャンが好きで、独特の色彩感覚はやはりゴーギャンの影響が強く出ているとインタビューで言っていた。空がピンクでもいいじゃないか!と。

原画がただひたすら展示されているので、なんというか美術館の特別展のような雰囲気でした。美術作品ですね。ルーブル美術館が展覧会開いたのもわかる。綺麗、鮮やか。


というわけで東京のジョジョ展@森アーツセンターギャラリーも行こうと思います。

*1:そのうち地下鉄が開通するようでそれなりに便利になるとか

WE GOTTA POWER

俄に気に入ってます。ドラゴンボールZの後期(魔人ブウ編)のOPですよね。タイトルの英語はどう見ても文法的におかしいんだけど、なんかこう、歌詞が博士課程の学生の心におもいっきり突き刺すんですよね。「ワクワクを100倍にして パーティーの主役になろう」とか、パワポの考察を盛りに盛りまくって、なんか大した結果じゃないのに学会で賞もらっちゃってバンケットで表彰されたみたいな。「トラブルとあそべ」とかもうね。。。地味に励まされます。CHA-LA HEAD-CHA-LAより個人的にはこちらが好み。


Z OP2『WE GOTTA POWER(影山)』歌詞付.flv

大多喜の紫陽花

鎌倉はもう見頃を過ぎました紫陽花。千葉の大多喜麻綿原高原は、高地にあるので開花が遅くもうすぐ満開です。来週くらいかなー。行きたい。一眼レフ買うかー。

http://www.kanko.chuo.chiba.jp/c_event/6094/

こんな感じ
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音楽嗜好症

まだ途中ですが


音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々

音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々


そもそも音楽というのは人間が生きていく上で必要なのか?というテーゼが本書の大きなテーマ。なんらかの障害を負ったり、事故などで脳にダメージが与えられたような極端な状態にいる人が、音楽を突然好きになる、もしくは忌み嫌うようになるなどの現象を脳神経科学の視点からいろいろ迫っている。そしてそういった訳の分からない現象によくよくフォーカスを当てれば、実は音楽って人間にとっては必要不可欠なものなのかもしれない、というのが全体の大きな主張で、取り上げている現象は29章に分けて様々な症例から考察がされている。

著者は「レナードの朝」で一躍脚光を浴びた脳神経科医のオリヴァー・サックス。まだまだ現役のお医者さんなんですなぁ。取り上げている現象は、わりとポピュラーな幻聴・絶対音感・音痴・共感覚から、落雷に打たれて蘇生した人が急にピアノ演奏を憑かれたように行うようになったりだとか、ある民族音楽を聴くだけで痙攣発作を起こすなど、普通ではありえないような症状を起こした人の例まで多々存在する。

とりあえず読み進めている途中。今のところ一番面白いと思ったのは、音楽の「感性」と「感覚」というのは全く別モノであるということでした。

本当に耳がよくて、実際、ママにもメアリーにも私にもない絶対音感があるの……それに指が柔らかくて、手首につくくらい反らせることができるし、何でも初見で読める。でも、コーデリアが弓を弦にのせるたびに、ママの顔はくしゃくしゃになる。最初は怒りで、それからだんだんに哀れみで。彼女が出す音色はひどくベタベタしていて、楽節のまとめ方はいつも、ばかな大人が子どもに何かを説明しているみたいに聞こえた。それに彼女はいい音楽と悪い音楽を聞き分けることもできなかったわ。私たちはいつもできていたのに。
コーデリアに音楽の才能がないのは彼女のせいじゃない。ママはよく言ってた……パパの遺伝だって。

プロの音楽家の脳は、大脳皮質の視覚野、聴覚野、運動野、他にも小脳や灰白質の量が多いというデータがあり、またこういった運動皮質とかそういう部分は、子どものときからの音楽トレーニングで発達させることが出来るかもしれないという研究もあるらしい。スズキメソードとかまさにそれを利用した方法である。そうなのかな。。。

基本的に音楽の能力というのは潜在的には誰にでもあるらしく、完全に発達させるには刺激を与えてやる必要がある。その能力は子どもの時に養われるものではあるが、それでも音楽に対する情熱があれば、上限はあるだろうが能力を伸ばすことは十分できる。。。といったことが書かれている。才能と情熱、感性と感覚は別なんですね。

よくクラシック音楽を幼少の頃から聴いていると、音の聴き分けが出来るようになるというのは、多分振動数の広い音の刺激を脳が受け続けることで、聴覚野を司る部分が発達するからなのだろうが、自分から表現する部分というのは、運動・判断等が司る部分が役割としてあり、またそれは別の問題というのは面白いなぁと思った。でも耳がよくてもヴァイオリンが下手な人っていうのはあまり聴いたことがないが、そういう人はハナからヴァイオリンを続けているわけはないんだろう。

もう少し読みます。結構ボリュームあって大変。